永谷集落 – 湖の底に沈むハズだったダム戦争の村
この廃墟について
永谷集落とは、福井県おおい町名田庄永谷に存在した集落。1965年頃に持ち上がったダム計画(芦生-挙原揚水発電所)により水没対象地区の一つとなったが、4世帯が強く反発し、看板などを掲げるなどして反対運動が起こった。1985年頃に、その4世帯も離村を強いられ廃村となった。
しかし、上部ダムが建設される予定だった京都側が、その後も強く反対し、2005年にダム計画は白紙となり、約40年にも及ぶダム戦争は終焉を迎えた。
その後も、永谷集落は人が戻る事無く、自然に溶け込むように崩壊が進んでいる。
廢墟レポート vol.158:永谷集落 Deserted Nagatani Village
こんにちは、たむです!
今回は、福井県おおい町にある永谷集落という廃村にやってきました。
この集落がある永谷という地区は、1965年、関西電力が京都府美山町と福井県名田庄村に揚水発電の為のダムを作るという計画が発表され、その水没対象地区となった地区です。
揚水発電というのは、標高の違う二か所の場所に調整池(湖)を作って、上部ダムから下部ダムへ水が落下するエネルギーを我々が使う電気エネルギーへと変換する発電システムです。
今回の場合、上部ダムは京都府南丹市の芦生地区周辺、下部ダムはここ永谷集落と、他にも挙原集落・出会集落という3集落が水没して作られる予定でした。
ダム計画が打ち出された後、立ち退き交渉は進み1980年代には集団移住でほとんどの世帯は村を後にしたそうですが、今回の永谷集落という村は4世帯が離村せずに反対運動を繰り広げました。今でも残っている集落内の民家には、ダム建設の反対の看板が掲げられており、ダム戦争の爪痕が残されています。
しかし、その努力も虚しく1985年には、残った4世帯も離村し、永谷集落は廃村となりました。
ダム計画はと言いますと、芦生原生林を有する京都側(芦生地区)がその後も猛反対をし続け、原生林を借り受けている京都大学も反対の立場を変えなかった事から2005年に関西電力が正式に美山町に中止の申し入れを入れ、約40年にも及ぶダム戦争は反対派の勝利で終焉を迎えました。
ダムは作られる事はなくなったのですが、永谷集落は離村後からダム計画白紙まで20年ほど期間が開いており、村に人が戻る事はなく、離村当時のまま放置された村は、ゆっくりと自然に溶け込むようにして崩壊し続けております。
これは是非、崩壊する前に訪れてみたいという事で、今回行ってみる事にしました。
ここは出会集落が会った分岐点で、左に行くと挙原集落跡地や皇子塚(市辺押盤皇子)があり、右へ進むと永谷集落へと向かいます。
ここまでは少し車高が高ければ来れると思いますが、僕の車は車高が低く何度も摺っていたので、この分岐の200mほど手前に車を止めて歩いてやってきました。
永谷へ向かう途中、2021年6月現在、大きな落石があり(動画を見てもらえれば分かりますが)車で永谷へ向かう事はできません。
左をすこし進んだ所から分岐する無名の谷には、大昔、山姥が住んでいたという伝説も残っています。怖いですが興味深いですね^^
ちなみに、話は戻って、こちらの皇子塚は第17代履中(りちゅう)天皇の第一皇子である市辺押磐皇子という人物の墓であると言い伝えられており、この先にある挙原集落はその守戸(皇室陵を管理する戸)だったのではないかとも言われています。
後継者争いの末、後の雄略天皇に殺害されこの地に埋葬されたとされていて、以前、村人が存在する頃は祭祀が行われていたようです。
なぜ殺害されたのかという事ですが、父、17代履中天皇は仁徳天皇の第一皇子でしたが、18、19代天皇は同じく仁徳天皇の第二(反正天皇)、第四(允恭天皇)皇子が続けて皇位継承しました。
20代天皇は允恭天皇の第二皇子の安康天皇が皇位を継承したのですが、この安康天皇は市辺押磐皇子に皇位を継承してもらおうとしておりました。それに納得がいかなかった允恭天皇の第一皇子(雄略天皇)が現在の滋賀県東部に市辺押磐皇子を誘い出し殺害したと言われています。
市辺押磐皇子の墓陵は滋賀県東近江市市辺町に宮内庁の管理する御陵が存在します。なぜ滋賀県で殺され墓陵も存在するのに、福井の山の中に塚があるのかと不思議ですが、滋賀県のものは後世になり移設されたもので、元々はこの挙原が実際に殺害された地であり、埋葬であるという説が現地ではあるみたいです。
分岐を永谷へと進みます。するとすぐに橋がありました。
ボロボロの橋です。あまり信頼できません。
この橋のあるポイントが、シンコボ(P811.4)周辺を源流とする永谷川と、三国峠(P755.9)を源流とする久田川(挙原方面)が合流する地点です。
ダム計画は「芦生-挙原揚水発電用ダム」と言われていましたが、当初は出合集落、永谷集落は水没予定ではなく、この橋のさらに奥、挙原集落方面のみが水没する予定でした。その後、出合までダムの位置を下流に移動する計画になった為、計画名上では「挙原」というそれまでの名称をそのまま使用していたという事だそうです。
(ちなみに久多は名田庄中心部で南川と合流し、小浜市市街地で小浜湾に注ぐ。)
電柱には永谷という文字と、番号が割り振られています。かつて電気が通っていた頃のもの。
永谷川に沿って、ひたすら進んでいきます。大きな崩壊もなく歩きやすいです。
さきほど紹介した橋を少し過ぎた所に、大きな岩があり、そのせいで車の侵入は不可能ですが、バイクや自転車であれば全然問題なく来ることができそうです。
やっぱ、こういう時用に折り畳み自転車は持っておかないとダメだよねー笑
分岐から、のんびり歩いて約20分で永谷集落到着です。距離にして1.8㎞ほどだったようです。
ここまでの道はほとんど平坦で、登り下りはありません。ですので、とても早く感じました。
この辺りは、東は滋賀の朽木、南は京都の芦生に隣接する国境の集落で、かつては薪炭業を生業とした集落が多く存在しており、永谷集落もその一つでした。
かつては「長谷」と書かれていたらしく、明治末期までは木地師が暮らしており、当時はさらに谷を詰めたクチクボ峠付近にも集落があったそうです。
その為、この三国峠を中心とした周辺の集落は、お互い交流を持っていて、自由に往来していたようです。
ちなみに、福井県嶺南、小浜や高浜などから、京都にかけては、かつて鯖街道というものがありました。有名な道としては現在国道367号線が通っている若狭街道がありますが、それだけではなく、ルートは細分化されいくつも存在していたのですが、その関係でこんな所にも集落があったの?というような所が福井から京都にかけての丹波高地には数多くあります。
若狭から京都にかけては、高山が存在せず、難所も少なく林業の地に適していたという事も、理由の一つだと思います。
有名な廃村八丁も、品谷山をとおる雲ヶ畑街道の途中にある集落で、永谷は古くは八丁集落などとも交流があったかもしれませんね。
ちなみに、福井県はなぜ、嶺北(北陸方言福井弁・無アクセント)と嶺南(近畿方言若狭弁・京阪式アクセント)では言葉が違い、嶺南は関西弁に近いのか?というのは、こういった歴史があったからで、古くから京都との交流があり、畿内の海の玄関口として栄えていたからだと言われております。
※芦生原生林付近は、ピークの所も〇〇峠などという事があります。しかし、〇〇峠という名前で、本当に峠のパターンも存在してややこしいので、上の地図では青の●がピーク、茶色の●が峠を表しています。ちなみに永谷集落近くの三国峠は「みくに峠」といい、その南部みある三国岳は「さんごく岳」と言います。両方とも山頂(ピーク)の名称です。
廃村から、もうすぐ40年ほど経とうとしていますが、このように建物がまだ残っている事に驚きです。
西洋の石造りやレンガ作りもすごいですが、木造で放置されたまま40年持つほうが凄く感じる。
一番見たかった、反対運動の看板。
「関電の発電に反対 永谷集落」と書かれています。
白い看板に、赤い文字が力強く書かれています。強く主張したかったのでしょう。
人の主張というのは、やさしさや協調を示すものよりも、否定を示す方が通りやすかったりしますよね。
こういった強い反対の主張というのは、受け取る側、見る側にとってはインパクトに残るものです。
40年間に渡るダム計画とその反対運動の攻防は、その内容や特徴にいくつかの段階があり、永谷集落というのは85年に離村をしていますので、初期~中期段階で廃村化しているという事になります。
なぜ、この村にダムを作りたかったのかというと、それは若狭湾に複数ある原子力発電所と併用して相互に作用させようとした為です。
水力発電は、細かな発電調整が出来る代わりに莫大な発電量は望めず、原発は大きな発電力を持ちますが、その微調整は出来ないというそれぞれ特徴があります。夜間、電気の消費量が少ない時間帯は、原発の過剰発電分をダムの組み上げに使う事で、過剰分の有効活用をし、安定した電力供給を行う為のものでした。原子力発電所と揚水発電所はセットで作られる事が多いです。
ですので、揚水発電所単体のダム湖で、治水目的ではありませんでした。
廣峯(ひろみね)神社にやってきました。
大きく左に崩壊した屋根が特徴的です。
牛頭天王、山王権現が祀られているそうです。
神仏習合の神様ですね。それぞれ八坂神社が牛頭天王、山王権現が比叡山の神様です。
神仏分離令により廃止されましたが、こういった山の集落では原型のまま残されているという事のようです。
やはり集落の起源は京都との繋がりがあった事がうかがい知れます。
崩壊してもなお、神秘的な雰囲気が漂っています。
常夜燈がありました。もちろん火は消えています。
本来、灯明をかかげたら、それが消えるような事があってはいけません。
ちなみに、比叡山では1200年もの間、消えずに灯し続けている法灯があります。毎日、油を絶やさないように継ぎ足しているのですが、気を抜いて油を絶やすと火が消えてしまいます。それが語源となったのが「油断」という言葉です。
神社の入り口には狛犬がしっかりと鎮座しています。
吽形像。苔をむしていて、神秘的ですね。
阿形像。後ろには崩壊した建物が。
建物には五三桐の家紋が綺麗に残っています。
本殿正面。大きく傾いており、いつ崩れてもおかしくないようにも見えます。
さらに永谷集落の奥に進むと、遊具が残されていた。
分校かなにか学校があったのかと思ったが、永谷の子供たちは出会集落(記事最初の分岐)にあった、名田庄小学校出合分校に通っていたそうです
集落最奥部。何かがあった形跡はあるものの、原型はとどめておらず、ここで引き返す事にした。
行きは長く感じたが、帰りは満足感からか、あっという間に車にたどり着いたような気がしました。
帰りに見つけたドライブイン美山の廃墟をバックに車を撮影。
永谷への道でかなり汚れたので、洗車をして帰りました。
感想・まとめ
永谷集落の最後の4戸が離村する決断をした理由、決定打となったものとして、推測されるのは59豪雪(若狭豪雪/1984年) の影響もあったかなと、今になって(個人的に)想像しています。
同じ日本海の京丹後市中部の三山・乗田原・小脇・竹久僧といった集落は、実際に38豪雪(サンパチ)で離村したという過去があり、廃村八丁という名称で知られる「八丁集落」は昭和8年の豪雪が廃村の理由となったと言われています。大昔であれば、豪雪でも自分の土地を守らなければならなかったかもしれませんが、近代から除雪作業が行われている町に移住するという選択肢もあり、そういった理由で廃村になった村は多く存在します。ダム計画による圧も背後にあった事は大きいかと思いますが、豪雪被害が最後、離村の後押しになったのかもしれません。
結果的にはダムが作られる事はありませんでしたが、それには芦生や永谷の人々の努力があったのだと思います。
作られた事によるメリットがあったかもしれませんが、作られなかった今、芦生は違う形で観光客を誘致しようと、かやぶきの里の集落を観光地化したり、なめこ栽培の産業を軌道にのせたりというその後の努力もあり、美山町が当時思い描いていたものとは違う、新たな美山という観光地が出来上がってきています。
しかし、残念ながら下部ダムが作られる予定だった、永谷を初め、名田庄側の土地(永谷、挙原、出合、またそれらの母村となる下流の虫鹿野集落)においては観光地化は進めておらず、廃村となった村は放置されるか村は解体されてしまったままの姿をしており、芦生と名田庄は国境尾根を隔てて、全く違う未来を進みました。
この先、永谷はさらなる崩壊で、この先原型をとどめておく事は難しいと思いますが、2021年現在、永谷内にある廣峯神社は、小浜市にある加茂神社に合併される事となり、また新たな永谷の歴史がスタートするのではと期待しています。もしかしたら、近いうちに崩壊した神社は再建されるかもしれませんね。
そして、最後に「こんな所に住むより移住した方が言い」「どっちにしても廃村になっていた」「移住して楽な生活をした方がいい」といったYoutubeでのコメントもありましたが、僕も、まさにその通りだと思います。
しかし、それは結果論であって、実際に当時ここに住んでいる人にとって、自分たちが住んでいる場所を急に湖に沈めるから移住してくれと言われるのは、大きなストレスだったと思います。ましてやご年配の方であればそのストレスは大きなものだったと思います。
人間は、心理学的にそれまでにかけてきたコストが大きいほど、これからかかるであろうコストを相対的に小さく考える傾向があり、新しい土地に移住し、また新たに生活の基盤を築くより、自分たちの先祖がこれまで暮らしてきた土地で、今まで通り暮らす事の方がコストが小さいと考える傾向が強いという事です。
現状の生活に満足している場合、移住するコストがただただ必要ないものになります。それは現状の村の生活のいい所や悪い所を知っていて、自分の采配で生活が可能な事に満足しているからではないでしょうか。それには、日本人にはD4DR遺伝子(ドーパミンの受容体の一種、新奇性追及遺伝子)の短い保守的な人が多いという事にも関わりがあると思います。
現代人の感覚でいうと、都会に住む事によって得られる恩恵が大きいという事と、テレビやネットといった情報社会の中で、自分の環境を変えるには何をすればよいかという事をすぐに調べる事が出来るので、人は移動する事に対する抵抗が減っているかもしれませんが、以前はそうではありませんでした。
結果的に、移住した事によって電車や幹線道路がある便利な場所に住むきっかけとなった事は、もしかしたら良い事だったかもしれませんが、それは今回の記事の問題ではなく、それに至るまで、気づき上げてきた生活の基盤を捨てて移住する事を強いられた方々もおられたという事を知って頂ければと思いました。
大地震により津波の被害にあった土地でも、高架道路や家屋が倒壊・火災があった土地でも今も多くの人が暮らしています。そこに暮らす為に、何らかの対策を講じる事で、住み続けようとします。その土地を知る人からしたら、いい所悪い所、知っていて、次の対策を講じる事が出来ますが、遠くの縁もゆかりもない土地に住んでいる人からしたら「そんな所住まなきゃいいのに」の一言で済ませてしまう人も居ます。
そして、今日本にはダムが沢山存在しますが、それらもダム反対を乗り越えて出来た場所も多くあります。そして反対の末、建設されなかったダムも存在します。リアルタイムでいうと長崎の石木ダムは今もダム計画に苦しめられています。
災害があっても一定期間後に戻る人、戻らない人、田舎に実家があってその土地に住み続ける人、都会に出ていく人、ダム計画で納得して出て行く人、反対する人、それらの選択の違いは、それぞれその人のおかれた状況、環境の違いですので、当事者にしか分からない事というのが多く存在するという事です。
また、今回はこの動画・記事は、どの分野においても批判の意図があるものではありません。この国を発展させる上でダムが必要な場面もありましたし、出来てよかったという人も多くいます。またそういった技術の上で我々は便利な暮らしを送っています。
ですが、かつて日本各地に沢山のダムが作られる中、反対運動が沢山ありました。この動画ではそんな地区の一つである永谷集落にスポットを当てて、地元の方の気持ちを考えて作りました。そういった当時、自分たちの故郷を失う事に反対した日本各地の方々の気持ちというのはいつまでも大切した上で、消費者として感謝したいです。という気持ちを込めて作りました。
※このダム計画は治水目的ではありません。
※今もご存命の元永谷村民の方がおられます。(2021.6月現在)
永谷が所属していた自治体の歴史については以下の年表を参照
江戸時代:北陸道若狭国の遠敷郡虫鹿野邑(村)に所属。
明治4年7月:廃藩置県で若狭国がそのまま小浜県となる。(小浜県遠敷郡虫鹿野村)
明治4年11月:敦賀県の管轄となる。(敦賀県遠敷郡虫鹿野村)
明治8年:滋賀県の管轄となる。(滋賀県遠敷郡虫鹿野村)
明治14年:福井県が発足し、同地域も所属、現在に至る。(福井県遠敷郡虫鹿野村)
明治22年:地方自治法による町村制の施行によって、虫鹿野村を含む名田庄東部に「南名田村」が発足。(福井県遠敷郡南名田村永谷)
明治24年:同地域が「知三村」に改称。(福井県遠敷郡知三村永谷)
昭和30年:知三村が奥名田村と合併して「名田庄村」が発足。(福井県遠敷郡名田庄村永谷)
平成18年:名田庄村が大飯町と合併して「おおい町」となり現在に至る。(福井県大飯郡おおい町名田庄永谷)