古都コトイメージSmart

2016.02.21

大久野島の廃墟 – 発電所跡と砲台跡と毒ガス製造の痕跡

大久野島の発電所

廃墟の情報

大久野島
廃発電所
場所:広島県竹原市
船代:往復620円
建設 1929
廃墟化 1945.4


MAP:広島県竹原市忠海町

廢墟レポート vol.34:大久野島 Ookunoshima Island

今回は大久野島という瀬戸内海に浮かぶ周囲約4kmの小さな島に行ってきました。

忠海港(ただのうみ)に車を泊め、往復620円の切符とうさぎの餌をを買い、朝一の便に乗船しました。久々に見る海に気分が高鳴りました。甲板で朝の風でも当たろうかと思いましたが、思いのほか寒く船内の窓から外を眺めました。

船では広島弁と思われるが方言が行きかっており、知らない土地も新鮮で、天気もよくのほほんとした旅気分でスタートしました。

大久野島は日本中世の瀬戸内海で活動した村上水軍の末裔がすんでいた島としても知られており、また松の木が多いことから松茸が取れ、浜はさざえや貝などが取れ、農作物がよく育つ平和な島だったといいます。

日清戦争後に軍都広島と軍港呉を守るため周囲の島々や岬には要塞が築かれた際、大久野島にも1902年に砲台が16門が設置されました。

1929年からは毒ガスの製造がはじまり、最盛期の1942年には年間1200トンもの毒ガスが製造されていました。毒ガスの製造は国防上外部に知られてはいけないため、当時の地図からこの島は消されました。また製造者も10代後半の進学が出来ない貧しい家庭の子供が「科学の勉強をしながらお金をもらえる施設がある」などと誘われ、自分が毒ガスを作っているという事を知らないまま勤めていたといいます。勤める際は「この島でみたり聞いたりしたことは例え親や親族であっても話してはいけない」という事を約束させらたそうです。

ここで作られた毒ガスは北九州に運ばれ、そこで砲弾や爆弾などに装填されて戦場へと送り込まれていたといいます。2発目の長崎に落とされた原爆は、もともと小倉が標的だったというのは米軍がこの毒ガス工場の存在を重視したからという説もあるそうです。

 終戦から70年、現在はうさぎ島と呼ばれるほどうさぎが多くそれらと触れ合ったりキャンプやバーベキュー、テニスや釣りなどが楽しめる観光客の絶えない癒しスポットとなっていますが、戦時中には人を殺す為の毒ガスが作られていた過去があり、さらには毒ガス製造に携わった多くの元工員が毒ガスを間接吸引したため、現在も後遺症に苦しめられている現実を知っておかなければなりません。

 船を出るとすぐうさぎが我々を迎え入れてくれます。自由気ままに寝転がったり走り回るうさぎや、観光客めがけ全力ダッシュしてくるうさぎ、人間を警戒しつつも横目でチラチラしたりととても愛くるしい姿を見せてくれます。

 一袋持っていた餌はすでに船乗り場の大勢のうさぎに群がられ至福の時は束の間、いつの間にかすべて奪われてしまい、餌がなくなったと思えば一瞬にしてうさぎは別の餌を持っている人の下へと走り去ってしまいました₍笑

 毒ガス島にうさぎ…、来る前に見たサイトの記事に書いていた「毒ガス製造のモルモットにされていた」という噂が脳裏をよぎる…(後述)。

写真のトンネルを超えると一つ目のスポット、発電所へと向かいます。

右側の人で隠れた所に黄色い文字「MAG2」と書かれています。Magとは「Magazine(マガジン)」つまり軍用の弾薬庫を意味します。発電所なのに弾薬庫?と思いますが、これは終戦後にアメリカ軍が書いたもので、大久野島は毒ガスが作られていたという事で米軍に接収され、その際にこの建物は弾薬庫に使用していたそうです。

そしてこれが大久野島の発電所。戦時中の1929年、旧陸軍造兵廠火工忠海製造所がこの島に置かれたことにより、毒ガス製造の電力供給の為に建てられました。

こちらにもMAG2という文字が。なんかね~かっこええんですよね~。

MAG2…。

この発電所、発電以外にも風船爆弾の製造にも利用されていたそうです。

なんでもこんにゃくで和紙を貼り合わせて作るそうで、それをジェット気流に乗せアメリカまで飛ばすのだそうです。戦争も余裕が無くなるとへんてこな事を考えはるんですね。

発電所内は損傷が激しい。

まずは行ってすぐ、広い空間があります。発電装置の置かれていた場所です。

残留物はありませんが土台などが残っており発電所の雰囲気はあります。もう90年も前の建物ですので窓のガラスもすべてなくなっており、1970年の落書きもある事からその頃以前から廃墟として知られていたと思われます。

無機質な空間とこの年代物の壁の質感などたまりません。

窓はすべて縦列一組で開閉できるような設計になっており意外と複雑なつくりをしています。

多くの窓から降り注ぐ朝日が美しい。

廃墟の中でもこの年代のものが一番好きです。コンクリートやモルタル製の建物が半世紀~1世紀以上たった質感、また当時の建物によくある特徴的な窓の建築が好みなのかもしれません。

しかしこの年代の発電所にしてはかなり大きい気がする。

毒ガス製造にそれだけ電力を使ってたんかな?!

発電所というともっと穴が開いていたりタービンの設置あとがあったりがあるのですが、この建物はそういったものがあまり無い気がします。

高い位置まで落書きがあるけど、あそこまでどうやって行ったんやろ…。

休憩室?天井ははがれ落ちています。

二回にやってきました。(階段が危ないので絶対に真似しないでくださいね。)なにか設置していた基盤のようなものが残っています。

上へ登ると朝日が差し込む様子がよく見れます。

窓の規則的な配置のリズム感、そして窓は幾何学的に朝の日の光を落とす。この組み合わせが素晴らしいんですなぁまた。

建物に入る際、窓から差し込む光を見たいので朝一やと太陽の位置が悪いので太陽の位置をみて中に入りました。

窓がやっぱり良いね!

二階の窓から。

刑務所の檻みたい?!

こちらは建物の西側にあるちょっと狭い空間。何もありません。

狭い部屋から大きい部屋。

建物の裏側から。うっそうを茂る森に囲まれています。

島をぐるりと回ります。こちらは火薬庫跡。レンガ作りです。MAG2は発電所ですが、MAG1はこちらです。

北部砲台跡です。

こちらは貯蔵タンクが置かれていた台座です。いかに大きいタンクだったかが分かります。

こちらも弾薬庫?要塞?和歌山の友が島のものと同じようですが、こちらは水没している!すごい!

水に沈むと男のロマンLv.が2上昇しますね。

北部砲台からは休暇村方面へは行かず展望台(島の山頂部)へと向かいました。広場に出たと思うと忠海港からも見えていた大きな送電鉄塔がありました。京都タワーよりデカいねんけど…などと話ていると、高さはなんと226m!京都タワーなんて比ではありませんでした。日本一高い送電鉄塔なんだそうです!

この広場にもうさぎがちらほら居ました。鉄塔を撮影していると足元がフワッとしたのでビックリして下を見るとウサギが靴ふにふに踏んでました。

餌はもうないよ…ごめんよ…。

うさぎ「こいつエサ持ってないわ」

中部砲台後です。鉄塔のすぐ横にあります。

こちらにも弾薬庫みたいなものがあります。中部砲台跡にあるこの弾薬庫は保存状態が良いのか立ち入り禁止ではありませんでした。

中は部屋同士でつながっています。

中部砲台跡を超えると展望台にやってきます。だいぶ高い所にあるのですが、びっくりする事にここにもウサギがいてました。人が来るとまっさきに寄っていきます。

休暇村方面に降りていきます。瀬戸内海の島々を眺めながら気持ちの良いハイキングです。

こちらは毒ガス貯蔵庫跡。猛毒で皮膚がただれるイペリットと呼ばれる毒ガスが貯蔵されていたようです。

ちなみにこの島では5種類の毒ガスが製造されていました。

イペリット – 皮膚についただけでただれ、発がん性あり。
ルイサイト – イペリットより強力で即効性のある毒ガス。繊維やゴムなどを透過する。
ジフェニルシアノアルシン – 気道や眼を強く刺激し、催涙効果がある。嘔吐剤とも呼ばれる。
クロロアセトフェノン – 現在も催涙スプレーとして市販されている。目に入ると激しい痛みを感じる。
青酸ガス – 大量吸収は即死し、少量でも嘔吐、めまいがする。

ここで作られた毒ガス総重量は6,616tもあります、全て使用すると地球上の全人類を死滅させられる量と言われています。

内部が黒くなっているのは火炎放射器で毒ガスを焼いた跡だそうです。

中から見ると古代遺跡のような雰囲気もあります。まだこの島では毒素が検出されるような話を聞いているので、苔の生えた地帯を歩き、そして壁などは触らないように見学しました。

こちらがタンクの台座です。

テニスコートにもうさぎが!かわいいなぁ。撫でれるウサギは何匹かいてましたが少なかったのが残念です。ただこちらから手さえ伸ばさなければどんどん寄ってくるし、なんなら前足つかって抱き着いてきたかわいいやつもいました。

毒ガス製造の実験で使われていたものの生き残り…と噂されているこのウサギたちですが、実際は1971年に本土の小学校が飼いきれなくなった8羽のうさぎをこの島に放したのが野生化して繁殖したものだそうです。

この島は戦後GHQ(豪)に接収されましたが、日本に返還された際に地元広島大学が生物調査を行ったそうです。その際の島の様子は毒ガスの殺菌消毒の為に厚さ3cmものカルキが巻かれていた状態で、島中の草木は枯れ、とてもウサギが生息できる状況ではなかったそうです。その事から毒ガス実験体の生き残り…という話はただの噂だったという訳です。

島に放たれたうさぎは天敵が居ない事から今では700羽以上に増えたのだそうです。なんだかロマンがありますね、うさぎの起源…アダムとイブみたいな。皆ご先祖は同じ、親戚同士なんですね。

感想・まとめ

うさぎ島と呼ばれる裏で負の遺産としての過去をもつ後世に残しておかなければならない大事な島やなと感じました。

和歌山の友が島は大阪湾を守る砲台跡がありますが、こちらは砲台もですが、地元民をも苦しめながら戦争の毒兵器を作っていました。当時働いておられた方の話を聞くと、一言でほんまにえげつないなと感じます。まだ何も世間を知らない若くて貧相な人の弱みに付け込んで…。僕がこの時代に生まれたからこその意見ではあると思いますけど。彼らは国のために頑張っていたんですもんね。いざ今戦争となったら国のために僕が何をできるのか?!ハッキリいうと天皇に命を捧げるなんてまっぴらゴメンだし、赤紙が来たらビリビリに破いて山の奥深くに逃げ込んでしまうかもしれない。そう小さい頃からそう教わってきたのだから仕方がない。それがゆとり世代だ!(胸を張って)。日本人は国に忠誠心のない弱い民族ですなぁ。

現在残る発電所や毒ガス貯蔵跡、砲台跡など80~100年前の建築ばかりで廃墟としても見どころのある島でした。特に発電所は廃墟として有名です。侵入するには危険ですので、くれぐれもこのサイトを参考にしては行かないでください。

山と終末旅の管理人について
たむ - tamura -
平成3年生まれ、京都に住んでいます。登山や、夜景、人の少ない観光地へ行って、現実から逃げ、非日常的な体験をする事が好きです。

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