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2021.05.29

ニソの杜 - 福井・大島半島に伝わる伝承と神霊が宿る禁足の杜

ニソの杜とは?

ニソの杜とは、福井県おおい町に存在する古代信仰の杜の事で、大島への道を最初に開拓した24の祖を祀っていると伝えられています。

現在、大島半島でその存在が確認されているのは33か所で、それぞれ祖先の埋葬地ではないかと考えられています。

多くの杜はタブノキ等の巨木を中心とし、ツバキ、竹などが鬱蒼としげった様子で、それぞれ杜は、祭祀を受け持つ家によって代々守られてきました。

年に一度だけ祭祀が行われ、11月22日深夜から23日未明にかけて杜へ入り赤飯等をお供えします。祭祀の時以外は絶対に近づいてはならない禁足地とされ、それを破ると祟りが起こると言われています。

民俗学者の柳田国男氏はニソの杜のような形態が「日本の神社の原型」であるという学説を唱えました。

ニソの杜を散策してきました

今回は再び弟をひきつれ、福井県おおい町、大島半島にある「ニソの杜」という所を探しにいってきた。

しかし、部外者にとってそれらを探す事は容易な事ではない。なぜなら、昔はニソの杜はそれらの杜の祭祀を受け継ぐ家の者しか知らなかったからだ。

今では学術的に価値のあるものとされ、研究対象となり調査報告書や書籍などで一般に知られるようになったが、それでも現地の信仰に配慮してか詳細な場所まではあまり明瞭ではない。

手がかりとなるのは、手元に持っていた古い雑誌の一部を印刷したもので、そこには33の大まかな杜の位置が記されている。①~㉝まで数字が割り振られているが、文字大きく示している場所は広範囲であった。

とりあえずは大島半島へ向かって、手探りで探していくしかないであろうという事で、いくつかの特徴を覚え、大まかな地図を持参し現地へと向かった。

大島半島は、若狭本郷(おおい町市街地)の向かいにある大きな半島で、8世紀頃はまだ島だったという。潮の流れで土砂が堆積し、大島と南西部と和田地区の間に砂洲が形成され、陸つなぎとなり現在のような半島となったそうだ。

その半島に点在する「ニソの杜」というのは、大昔、最初に大島への道を切り開き住み着いた24の祖を祀る杜で、その数は33か所存在する。

一つ一つ地名を冠称した「●●の杜」という名称があるが、それら33か所をまとめて大きく「ニソの杜」といい、地元では「モリサン」「ニンソー」「ニソ」などと呼ばれている。杜によって呼称が違うのは後ほど説明する。

毎年11月22日深夜から23日未明にかけて祭祀が行われるが、数々の禁忌があり、祭祀以外の日は地元の者でさえ近づいてはならない、祭祀の日は一人で杜に入ってはならない(男女一組で入る事)、木々を伐採してはならない、魔除けの刃物を持って入らなければならない、帰り道振り返ってはならない(キツネに化かされる)などが存在し、それらを破ると祟りがあると言われてきた。

祭祀では供物が鳥などによって食べられる事を「オトがあがる」といい縁起の良い事とされているが、ある年にこれらの食べ物がずっと残っていた事があり、その年に村で火事がおきたり、流行病が広まったりし、これらは杜の祟りであると言れた過去の事例もある。

一般的な神社仏閣とは違い、ニソの杜は隠された場所に存在する。初見では入り口さえも分からないほどである。場所を教えられても傍からみるとただの森にしか見えず、入り口といえる場所はない事もあり、木や草の隙間から侵入する事となる。

なぜそのように隠されているかは不明だが、特に祭祀も他人に見られる事を嫌う為、深夜に行われていたといわれているほどタブーに包まれた土地だという。

森は中心に依り代となる巨木(多くはタブノキ)があり(ない所もある)、それを中心に藪や草木広がり聖域としての杜を形成する。森に点在する積石古墳によって、ニソの杜は大昔のサンマイ(墓所)である事が分かった。

話は変わるが、「日本書紀」には、崇神天皇の時代に大和の笠縫邑に天照大御神を祀った際に「ヒモロギ」をたてた。ヒモロギとはつまり、神の依り代となる木を指し、巨木である事が多かった(高い木は天に近い為?)。

祭祀の時はこの巨木の周囲をしめ縄で覆う事で聖域としたが、後に社や祠などが建てられるようになり、これが神社の原型であると言う。かつては鳥居も社も無く、その地の木が聖地として崇められていた。

ニソの森はそういった自然信仰・巨木信仰の名残ではないかとされ、民俗学者の柳田国男氏はニソの杜のような形態が「神社の原型」であるという学説を唱えた。

まず最初に訪れたのは浦底の杜というニソの杜だ。

浦底といわれる集落があり、背後の山との境の斜面に小祠がある。

ちなみに右は白山権現を祀る白山神社、左が浦底の杜である。

かつてはタブの木の巨木が存在したが、台風の影響で倒木し、切り倒された株のみが白山神社側に残っている。(動画参照)

ニソの杜を語るにあたって、重要な事は巨木とその巨木に対する人々の認識の部分に存在する。

一年に一度の祭祀の時しか入る事のない、この杜の事について古来より口頭伝承されてきた中でイメージによって語られる部分が大きかったとされる。

つまり巨木というのは自分の守るべき杜の目印となってきた。その依り代とする木のイメージがそれぞれのニソの杜の実態であり、それらイメージが伝承や習慣等によって代々受け継がれてきた。

依り代となった巨木の多くはタブノキである事が多いとされる。タブノキは日本書紀にも登場するほど神事との関連性が深い木である。この地でもタブノキ=杜(モリ)という認識が強く、葬送儀礼の用具(棺や卒塔婆など)もタブノキによって作られるなど死者との結びつきも強い。

また、サンマイや古墳などに生えている事が多く(伐採してはならないという風習がある)、伝承や歴史について詳しくない者も、そういう場所に生えている木であるという認識していたという。

その為、杜によって呼称(モリさん、ニンソー等)が違ったり、祭祀の詳細も細かく違っているなどという事が起こる。

実際に、祭祀を行う家でも実際に杜が何を祀ってあるか知らない人が多い。そもそも墓所であるというのは古墳が出てきてから分かった事であるし、24の祖先というのも実態のある伝承ではない。

このように、ニソの歴史・伝承は細かい資料によって受け継がれてきたものではなく、杜や風習が持つイメージと漠然とした自然や祖先に対する畏怖によって語り継がれてきた。

ニソの杜の風習は国の無形文化財に指定されている。

立て看板には33箇所のうち20か所が現在も祭祀が行われていると書かれているが、10箇所前後とも言われる事もあり、その実態については不明である。

動画で地元の方への質問をしているシーンがあるが、その方は今回私が聞きたかった杜の事は一切知らなかった。

その方以外にも聞いて回ったがいずれも知らないという言葉ばかりであり、運悪く自分が管轄する杜がある方との遭遇は出来なかった。

杜を守る家がそれぞれ伝承を受け継いできたが、それを他と共有していた事は少なかったのではないかと考えられる。

看板には自然の霊威への素朴な信仰とあるが、この文からさきほどのイメージのお話をしたが、現在ではこのようなイメージの下、語り継がれている現状を知る事ができる。

ニソの杜の祭祀、杜まつりとは一体、どういったものなのだろうか。

毎年、新嘗祭と同じ11月23日に祭祀は行われる。1つの杜に対して1つの家が守っている事もあるが、1つの杜に対して数件の家が守っている事もある。複数の家がある杜は、毎年順番で担当し祭祀を行う。

赤飯(あかめし)と、しとぎと言われるお団子のようなものをお供えするのですが、昔は人目につく事を嫌った為、22日の深夜に提灯を持って杜にお供えしに行ったという。(現在は日中であるという)

杜にはそれぞれニソ田があり、そこで収穫されたもので祭祀料をまかない、祭祀終了後は祭祀担当の家に集まって飲み食いするニソ講が行われる所もあったという。今は行われていない所も多いのだとか。

次に訪れたのは博士谷の杜(あってる?)

目の前が杜である。場所はお分かりだろうか?

写真中央部にぽっかりと開いた暗い部分があるが、そこが入り口である。

一見、ただの森にしか見えず、たまたま大まかな場所を知っていて、注意深く散策していたから見つける事ができた。

少々心苦しいながらも森の中に一歩、また一歩と足を踏み入れた。

大きな木と小祠がある。

さきほどヒモロギのお話をさせてもらったが、かつては木にしめ縄を巻き、それを神域・聖域とし、その後小さな木の苗を立てた台座へと変わり、祠へと変わっていった。

神域とは神が宿る場所(依り代)の事をさす、狭義では祠周辺を本当の禁足地、近寄ってはならない場所とする捉え方もある。

その証拠に、道路の格調などによって森(杜がある森)が縮小された場所もある。依り代が重要なのであり、それらを総括する森はその時代の事情により形が変わってきたのもニソの杜の特徴でもある。

その為、自分の判断の下、自己責任だが出来る限り祠・巨木には近づかず、全体が見渡せる箇所まで入って撮影させて頂いた。

杜がある場所はいくつかの特徴がある。山の尾根の末端部に位置する事(平地もあり、形状はその二パターンに分けられる)、巨木を有している事。

いずれも道路から入ってすぐなど、分かりにくいものの、比較的行きやすい場所にある。

現在の町からほど近い杜が多くあるが、山手のほうにも点在している。かつてはそこにも集落があったという事らしい。

清水の前の杜にやってきた。

ガソリンスタンドの裏側にあるという情報は聞いていたが、ここは探すのに苦労した。

竹藪には道がなく、ただただ鬱蒼とした杜が広がっていた。

唯一、目印ではないが、お地蔵様が倒れていた所が入れそうだったので、奥に入ってみる事に。

すると、倒れた竹の間にひっそりと祠は佇んでいた。

まだ新しい紙垂やしめ縄があり、昨年に祭祀が行われたであろう姿がそのまま残っていた。

杜の木は刈ってはならない、そういう教えがこういった風景を作り出しているのであろう。

守られていく伝統と、退廃的な杜の光景が相反して不思議な感覚になった。

次の杜を探している時に、不思議な杜に迷い混んだ。

鬱蒼とした森はニソの森を彷彿とさせるものだったが巨木や祠などの姿はなく、ふと目をやった所に5~6体のお地蔵様が落ちていた。

いくつかのお地蔵様は浸食からか顔がえぐられているようにも見えます。

こういった顔のないお地蔵様がこの半島のなんでもない森にいくつかあった。ただの廃棄物なのか意味のある場所なのかは分からないが、疑問に思った事の一つだ。

最後に紹介するのは浜禰の杜。

これもまた隠された場所に存在した。写真右側の黒い箇所が入り口である。

これもまた巨木に寄り添うように小祠があった。

ここには紙垂やしめ縄など、祭祀の跡が無く、管理されているような感じには見えなかった。(でも多分管理されてる気がする)

浜側にあり、すぐ近くには大きな海水浴場があり波の音が響く。

日常の影にこのような場所も存在するのだと、決して忘れてはならない日本人にとって重要な歴史であるという事を知る事ができた。

大島は原電が出来て生活ががらりと変わった事だろう。近代化や生活が豊になるにつれ、人々の信仰心も薄れてきているという。さらに高齢化により杜を継承できない家々も今後出てくるだろう。

人間は豊になると信仰心が薄れるように出来ているらしい。さらに病気になっても今は病院がある。お金の心配があっても保険がある。正直、現代は神や霊という心の拠り所は必要ない世界なのかもしれない。

それでも、大島の人々は可能な限り、この祭祀を続けている。

本当に心にゆとりがある人間は、ちょっとした出来事や、自分の今がある由来について考え、それに対し感謝出来るのだと思う。

大島の人々はそういう感謝の気持ちを忘れたくないという、心の豊な土地なのだろう。

最後に、道の駅小浜のサバサンドはめっちゃオススメ!絶対食べてよね!

感想・まとめ

ニソの杜の風習についてとても興味があり、ようやく訪れる事が出来ましたが、実際の所、現地の方々はそういった事を聞かれる事に歓迎という雰囲気ではなく(僕がお話させて頂いた方々のみかもしれません)、なかなか思うようにお話を聞く事ができませんでした。

重要な文化なだけあって、それらをもっとまとめ上げたいとおもうので、機会があればまた訪れてみたいと思います。

我々日本人は無宗教であると自称する人がおおいと思いますが、僕はそうであるとは思いません。確かに、特定の神を信仰し、日常的に祭祀や祈りを捧げている人は少ないかもしれませんが、日本人の感覚に根付いた信仰の習慣はあると思います。

例えば、神社仏閣では手を会わせるでしょう、七五三を祝ったり、お守りを買ったり。これらは熱心な信仰心とは違うかもしれませんが、宗教的イベントです。

信仰心があるからではなく、習慣だから、皆がやってるイベントだからだと言う人もいるでしょう。でもそれはニソの杜も他の禁足地での祭祀も同じで、人間はそうやって習慣やイベントを利用して信仰を継承してきました。

古く人間という生物が発生してから、つい数百年前までという人間が歩んできたほとんどの期間は、目に見えない何かというのは、伝承や習慣こそが真実でした。

真実、出来事、感謝、伝えようとする気持ち、そういう脈々と受け継がれてきた習わしが、残されてきた人間にとって漠然とした大きな畏怖だったのだと想像できます。

そのDNAに刻まれ、脈々と受け継がれてきた価値観を、今を生きている現代日本人も持っていると思います。

なので、今日、こういう所に気て科学が発達した今でも違ういみで怖いと思いましたし、何か不思議な気を感じた気がしました。

でも、何も知らずにこの土地に言っても、何も感じないでしょう。祖先を祀っている事、杜を守る家によって脈々と受け継がれ今も守られている事、そういった事を知ったからこそ怖いと感じたはずです。

この怖いと感じた感覚こそ、我々のご先祖様が感じていた人間のもつ科学が発達するまえの原始的な恐怖に近いんじゃないかと、ニソの杜を歩いていて思いました。

そしてこの怖いと感じた気持ちこそが、神や霊の正体であり、敬意をはらうべき日本文化の起源なのではないかと、今僕は感じています。

ニソの杜というのは、今の神様、古事記、日本書紀のような歴史書が生まれるまでの過程で生まれた神的なあるいは霊的な価値観の起源なのでしょうか。詳細にいつ発祥で、どのように受け継がれてきたのか、まだまだ分からない事は多そうな気がしますが、しかし本当に不思議で魅力的な場所でした。日本にはまだまだ知られていない人間の神秘が眠っているんですね。

大島半島のように、古い風習の残る地域から山一つ隔てた岬には大飯原発があるのがとても不思議でした。福島原発の事故から原発反対の動きは大きくなりましたが、出来始めた頃は何も分からずいい点ばかりのプレゼンに、この半島も押されるがまま大きな反発もなく受け入れたそうです。

動画の序盤で渡った綺麗な青戸の大橋は今では地元の重要な生活道であり観光地である訳ですが、これも原発を作る時に関電が提示してきた条件でした。それまでは本土までの行き来が大変で不便だった島民には喉から手が出るほど欲しかったものかもしれません。

おおい町は小浜の近くにあるんですけど、小浜といえばサバ!サバと言えば小浜!古くは鯖街道を通じて小浜などから京の都に魚を運んでいたというほど、古くから漁業で栄えた場所です。

大島半島も古くから漁業によって栄えていました。サバはこの地にとって切っても切り離せないものと言えるでしょう。

小浜にきてこれを食べないと祟りにあうらしいです。ボールペンが書きにくくなったり、テレビのリモコンがちょっと反応悪くなったり、割と怖いです。是非食べて下さい。

おまけ 僕の家に代々伝わる謎の禁足地

禁足地に関連して、久々に思い出したので、僕の小さい頃の思い出を書いていこうと思います。この思い出は20年以上前だったと思います。

僕の父親方の祖父母の家に、子供の頃はたまに遊びにいってたのですが、その家の裏山の「入ってはいけない場所」の事について、ある日お爺さんから教わりました。

祖父母の家は、大きな山の裾野にあり、少し離れた所に上の写真に写っている小さな森があります。

僕ら親族はそれを「山」と呼んでいたので小さな頃は、ここは大きな山の麓なんだと本気で思っていました。実際は裾野の中にある畑地帯の一角にある小さな森です。

ここは僕のお爺さんの土地なのですが、家からは300mほど離れていて、小さな頃は僕ら兄弟と、おじいさんお婆さんの家に住むいとこの絶好の遊び場でした。

小学校高学年くらいの頃だったと思うのですが、ある日、この山に遊びにいこうとしたらお爺さんから「山のどこかに祠があるから、あったら絶対に近づくんじゃないぞ」という事を言われました。

ちなみにおじいさんは、そのまたおじいちさんから聞いただけで、祠の場所は知らないとの事でした。

本当の言い伝えなのかは今でも分からず、それでも、そんな事を聞いた僕たち兄弟といとこは興味を持ってしまって、探そうという事になりました。

ちなみに僕の父も昔、それを聞いていて実は探したこともあったそうなのですが、父は見つけられず、その日聞くまで忘れていたようで、そういやそんな話あったな、という具合でした。

ちなみに写真は、記録では2005年8月14日となっているのですが、山に雪が積もっていたりするので、日付は間違っていますね。もっと前の春先だとおもいますが、いつとまでは正直覚えてません。

カメラはporaroid PDC 2070です。

それで親戚たちに情報を聞いてまわったのですが、おばあちゃんは隣村から嫁いできたので、全く知らないという事で、おじいちゃんも、そのおじいちゃんから聞いただけで場所は分からないという事でした。

どんな祠なのかも分からず、どこにあるかも分からない、ただおやじやおじいさんから聞いただけで、現在、生きている親戚内に実際にその祠を見た人は居なくて、皆、薄っすらと聞いているような、いないようなという雰囲気で、しつこく聞いていたら、おじいさんからはすごく嫌な顔されて「そういうのはほっとくもんだ」とあしらわれたような記憶があります。

その所有している山というのは大きな山の裾野の、畑が広がるエリアの間にぽつりと存在する小さな森の事なのですけれども、集落から離れあぜ道を進んでいった所に存在します。

たばこ畑の横の舗装してないぼっこぼこの細い道を登っていくと、奥に広場があり、僕らは倉庫と呼んでいた僕の父が自力で建てた掘っ立て小屋があります。その倉庫と倉庫周囲の作業をするエリアは草が駆られて平坦な土地なのですが、それ以外は文字通り森で、藪なのでそもそも入ろうとすら思った事もない所でした。

最初は入り口から反対側へ森を突き抜けてみようと、トラクターが通るような小さな道を進んでしました。勿論何もなく、そのまま森の反対側へ突き抜けてしまいました。

そこはその時はじめて通った道だったんですけども、そこには昔の車の廃車があって、それ以外はどこまでも畑が広がる景色が広がっていました。

戻って、違う所を探そうにも藪で検討もつかず、当時僕らは祠といった木で出来た小さな神社のような姿を想像していたので、草木をかき分けてまでは探してなくて、辺り一面一通り遠目で探すような感じで「無かったよね」という事で、その日は帰る事にしました。

僕らも半信半疑というか、あったら面白いな程度で軽く冒険程度に考えていただけなので、その日、それ以降は違う遊びに夢中で祠の事はすっかり忘れて、何日か滞在した後に僕は家族と自分たちの家に帰りました。

その次におじいさんの家に来た時に、深夜の兄弟・いとこが集まった会議でですね、いとこがやっぱり「あの話はやっぱり本当らしい」という事を、聞いていてくれたので、もう一度探してみるかって事になりました。

ちなみにこの駄菓子屋(雑貨屋も兼ねる)の駄菓子は、9割が賞味期限切れ。でもここしか駄菓子屋がないので、仕方なく子供の頃は賞味期限切れのお菓子を食べていたのですが、ある日、いとこが購入したチーズがカビだらけになっているので返品をしてもらいに言いに言ったらめっちゃ嫌な顔をされて「今回だけだぞ、普通はこんな事しないからな」と言われました。

それ以来、僕らはこの駄菓子屋に対してずっと借りがあります。

一番手前の人物が動画にも出てた弟です。

僕、次男、三男(動画に出てた弟)といった具合で、三兄弟です。

ご先祖様だけが祠の場所を知っているという事で、歩いてすぐ2~3分のお寺にある僕らの家のお墓にお参りにいって「場所を教えて下さい」っておがんだ事を覚えていますね笑

ちなみに父は10年ほど前に亡くなり、このお寺に眠っています。初めてのお葬式は緊張感が漂っていましたが、一番ビックリしたのはその儀式です。

よく昔話で幽霊が頭につけている三角巾をご存じでしょうか?正しくは天冠(てんかん)と言うのですが、遺族は皆でその紙で出来た天冠をつけます。死者ではなく、生きてる側が天冠をつけるというのがビックリでした。(死者は経帷子を着て棺桶に入ります)

天冠は悪魔祓いのお札のようなものだと聞きました。霊柩車とすれ違う時に親指を隠せと昔から言いますが、それと同じくこの世に未練を持った死者が遺族に憑りついたりしないように、または悪霊が死者に近づけないように付けるものだそうです。

そして天冠を付けたお弔いの行列は、骨壺をかついで写真の道を歩いて来ます(火葬跡に葬式を行う)。父が亡くなったのは2月でしたので、しんしんと雪が降る日でした。お弔いの行列は喋ったり振り返ってはなりません。ですので、雪を踏むギュッ…ギュッ…という音だけが周囲に鳴り響いていて、大昔にでもタイムスリップしたかのような世界でした。

そして境内の広場の中央に、その骨壺をおき、棺桶の周りを三周半してお寺の中に入っていくというのがお葬式の始まりの一連の流れでした。

お葬式が終わると、最後にお墓の中にお骨を入れるのですが、壺からサラサラ…と直接墓石の下の地面へ入れていました。初めてお葬式を経験する前は、骨壺ごと入れておくものだと思っていたのでビックリです。

ちなみにうちは曹洞宗なのですが、お寺は浄土真宗であり、田舎特有といいますが檀家の付き合いやなんやで二つの宗派が混在しています。

なのでお葬式は浄土真宗の内容で執り行い、お寺が関係しない火葬場では曹洞宗のお経を唱えます。火葬場にご住職がお見えになった時は浄土真宗のお経を唱えます。お爺さんに指摘したらものすごい形相で怒られ、お寺には言うなと言われました。うちの家系は隠れキリシタンならぬ、隠れ曹洞宗のようです。

田舎なのでとにかく檀家付き合い系のお金がすごいです。平気で数十万、お葬式は数百万。都会では当たり前かもしれませんが、田舎では恐ろしい出費です。

戒名なんか恐ろしく高いですが、村民は死後は皆、大居士・清大姉です。そうせざるを得ないのだそうです。

話はもどります。

そしてその翌日の昼間に、もう一度裏山の倉庫に出向いて探すことになったんですが、なんかこの時は、背中がずっとゾクゾクしていてすごく怖かったのを覚えています。

前回は、なんとなくふわっと聞いただけで、探したのも勢いだったんですけど、今回はいとこの「本当らしい」って言葉が、妙に怖くて、皆で固まって探そうって事になったのだと思います。

結果ですね、普段人が入る事がない場所に、だまって居ればみつけようがないような場所に、ぽつんと一つ石で出来た小さな祠を見つける事ができました。

写真を載せておきますが、形は五輪塔のような構造ですが、少し違っていて、高さは記憶では30cmほどでしょうか、手作り感の漂う小さな祠でした。

表面は浸食を受けていて、年代を感じさせていますね。

そして何があるか興味があって、真ん中の弟といとこが分解してしまったんですけども、何もなくて結局今でも何なのか分からないままでした。

もちろん、祠は綺麗に元に戻していました

当時、おじいさんにこの写真を見てもらった時は、やっぱり知らなかったという事ですし、うちの家系に関連する何かじゃないと思うとの事でした。

最初は黙っておくつもりでしたが、いとこが口を滑らせてしまった事から、祠を見つけた事を知られてしまって、最初は怒られるのかな?と思っていたのですが、お爺さんは「本当にあったんだ?」という感じでした。父親はその時、実は俺も知ってたみたいな感じの事を言ってましたが、結局新しい情報はありませんでした。

もし、これをみて、無いとは思うんですが、なにか学術的に価値のあるものであったり、なにかの参考となる場合はご連絡下さい。公的機関や学校といった機関であれば、場所をお教えしますし、立ち入を許可します。

もう一つ情報をいれておきますと、ここの辺りは古来から街道があり、宿場町という訳ではないと思うのですが、栄えていたようです。(栄えるといっても、めっちゃ田舎ですけどね)

やっぱり先祖代々受け継いできた土地の中にあるので、次におじいさんの家に行ったときは、今度はちゃんとその祠にお参りにいって、軽く道を整備したり、石の清掃などをして今後正しく祀っていけるように存在を明確なものにしたいと思っています。


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山と終末旅の管理人について
たむ - tamura -
平成3年生まれ、京都に住んでいます。登山や、夜景、人の少ない観光地へ行って、現実から逃げ、非日常的な体験をする事が好きです。

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