旧立里小学校

廃墟の情報
廢墟レポート vol.127:旧立里小学校 Tateri School

こんにちはtamuraです。
今回やってきたのは奈良県のそれはそれは深い山奥です。写真は立里荒神社付近からの景色、絶景です。
なんと標高1200mもあるのです。小学校自体は標高750mほどなのですが、その集落へはこの道を通らなければなりません。

走らせていると…は!?!?!?関西で白樺林!?!?
びっくりして周囲を見渡してみると、立里荒神社が植林して保護しているようです。東日本では珍しくない白樺ですが、関西では全くといっていいほど見ることがないのです。

そしてなかなかの山道を走っていると、最果ての地、立里(たてり)に到着。
新し気な軽自動車が停車しており、どこからか犬の声も。誰かが住まわれているのかもしれません。

そしてこちらがこの集落の「立里小学校」。1954年に建てられた木造建築です。

壊れた百葉箱。

学校はとても小さく、数部屋しかありません。

教室は「1,2,3年」と「4,5,6年」の二部屋のみ。

生徒の絵が飾られていました。自画像やお母さんの絵でしょうか。

「4,5,6年」の教室には、オルガンが置かれていました。
カバーのようなものかかぶされていたそうですが、誰かが撮影の為に外したのでしょうか…あの姿が見たかったのになぁ…。

このピアノが唯一といっていい残留物。綺麗さっぱり中のものはなくなっており、ピアノは鍵盤が少し硬くなっていましたが、しっかり音が鳴りました。
感想・まとめ
深い深い山奥に存在する集落の廃校でした。奈良南部や和歌山南部に比べると距離で言えば街から近いですが、1200mの山を越えなければならないというとても辺鄙な場所に存在し、今までいった廃村や廃校の中でも島を除けばトップクラスな僻地でした。
廃校は小さく中は残留物などが残されていませんが、半世紀以上経過した木造の校舎はとても味わい深いものでした。
なぜこのようなところに人が暮らしているのか?かつてここには五条鉱山の3鉱床の一つ、立里鉱床がありました。徳川幕府の直営鉱山として金銀銅を採掘していたそうで、場所は集落の北西側に存在していました。
それ以前はどれくらいからこの場所に人が暮らしていたのかは定かではありませんが、ここに来るまでに通った立里荒神社は西暦800年頃の創建と考えられているそうで、立里集落も古くから人が生活していた地域なのかもしれません。
|