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2021.05.29

ニソの杜 – 福井・大島半島に伝わる伝承と神霊が宿る禁足の杜

廃墟の情報

ニソの杜
福井県おおい町


ニソの杜とは

今回は再び弟をひきつれ、福井県おおい町、大島半島にある「ニソの杜」という所に行ってきた。

大島半島は、若狭本郷(おおい町市街地)の向かいにある大きな半島で、8世紀頃はまだ島だった。その後、潮の流れで土砂が堆積し、大島と南西部と和田地区の間が陸つなぎとなり現在のように半島となった。

その半島に点在する「ニソの杜」というのは、大昔、最初に大島への道を切り開き住み着いた24の祖を祀る杜で、その数は33か所存在する。

一つ一つ地名を冠称した「●●の杜」という名称があるが、それら33か所をまとめて大きく「ニソの杜」といい、地元では「モリサン」「ニンソー」「ニソ」などと呼ばれている。

毎年11月22日深夜から23日未明にかけて祭祀が行われるが、数々の禁忌があり、祭祀以外の日は地元の者でさえ近づいてはならない、祭祀の日は一人で杜に入ってはならない(男女一組で入る事)、木々を伐採してはならない、魔除けの刃物を持って入らなければならない、帰り道振り返ってはならない(キツネに化かされる)などが存在し、それらを破ると祟りがあると言われてきた。

祭祀では供物が鳥などによって食べられる事を「オトがあがる」といい縁起の良い事とされているが、ある年にこれらの食べ物がずっと残っていた事があり、その年に村で火事がおきたり、流行病が広まったりし、これらは杜の祟りであると言れた過去の事例もある。

一般的な神社仏閣とは違い、ニソの杜は隠された場所に存在する。初見では入り口さえも分からないほどである。場所を教えられても傍からみるとただの森にしか見えず、入り口といえる場所はない事もあり、木や草の隙間から侵入する事となる。

なぜそのように隠されているかは不明だが、特に祭祀も他人に見られる事を嫌う為、深夜に行われていたといわれているほどタブーに包まれた土地だという。

森は中心に依り代となる巨木(多くはタブノキ)があり(ない所もある)、それを中心に藪や草木広がり聖域としての杜を形成する。森に点在する積石古墳によって、ニソの杜は大昔のサンマイ(墓所)である事が分かった。

話は変わるが、「日本書紀」には、崇神天皇の時代に大和の笠縫邑に天照大御神を祀った際に「ヒモロギ」をたてた。ヒモロギとはつまり、神の依り代となる木を指し、巨木である事が多かった(高い木は天に近い為?)。

祭祀の時はこの巨木の周囲をしめ縄で覆う事で聖域としたが、後に社や祠などが建てられるようになり、これが神社の原型であると言う。かつては鳥居も社も無く、その地の木が聖地として崇められていた。

ニソの森はそういった自然信仰・巨木信仰の名残ではないかとされ、民俗学者の柳田国男は「神社の原型」であるという学説を唱えた。

まず最初に訪れたのは浦底の杜というニソの杜だ。

浦底といわれる集落があり、背後の山との境の斜面に小祠がある。

ちなみに右は白山権現を祀る白山神社、左が浦底の杜である。

かつてはタブの木の巨木が存在したが、台風の影響で倒木し、切り倒された株のみが白山神社側に残っている。(動画参照)

ニソの杜を語るにあたって、重要な事は巨木とその巨木に対する人々の認識の部分に存在する。

一年に一度の祭祀の時しか入る事のない、この杜の事について古来より口頭伝承されてきた中でイメージによって語られる部分が大きかったとされる。

つまり巨木というのは自分の守るべき杜の目印となってきた。その依り代とする木のイメージがそれぞれのニソの杜の実態であり、それらイメージが伝承や習慣等によって代々受け継がれてきた。

多くはタブノキである事が多いとされる。タブノキは日本書紀にも登場するほど神事との関連性が深い木である。この地でもタブノキ=杜(モリ)という認識が強く、葬送儀礼の用具(棺や卒塔婆など)もタブノキによって作られるなど死者との結びつきも強い。

また、サンマイや古墳などに生えている事が多く(伐採してはならないという風習がある)、伝承や歴史について詳しくない者も、そういう場所に生えている木であるという認識していたという。

ニソの歴史・伝承は細かい資料によって受け継がれてきたものではなく、杜や風習が持つイメージによって語り継がれてきた部分が大きい。

その為、杜によって呼称(モリさん、ニンソー等)が違ったり、祭祀の詳細も細かく違っているなどという事が起こる。

実際に、祭祀を行う家でも実際に杜が何を祀ってあるか知らない人が多い。そもそも墓所であるというのは古墳が出てきてから分かった事であるし、24の祖先というのも実態のある伝承ではない。

ちなみに古墳から古い人骨が発掘された事もあるそうです。

ニソの杜の風習は国の無形文化財に指定されている。

立て看板には33箇所のうち20か所が現在も祭祀が行われていると書かれているが、10箇所前後とも言われる事もあり、その実態については不明である。

動画で地元の方への質問をしているシーンがあるが、その方は今回私が聞きたかった杜の事は一切知らなかった。

齢80にもなろうかという方がである。

その方以外にも聞いて回ったがいずれも知らないという言葉ばかりであり、運悪く自分が管轄する杜がある方との遭遇は出来なかった。

杜を守る家がそれぞれ伝承を受け継いできたが、それを他と共有していた事は少なかったのではないかと考えられる。

看板には自然の霊威への素朴な信仰とあるが、この文からさきほどのイメージのお話をしたが、現在ではこのようなイメージの下、語り継がれている現状を知る事ができる。

ニソの杜の祭祀、杜まつりとは一体、どういったものなのだろうか。

毎年、新嘗祭と同じ11月23日に祭祀は行われる。1つの杜に対して1つの家が守っている事もあるが、1つの杜に対して数件の家が守っている事もある。複数の家がある杜は、毎年順番で担当し祭祀を行う。

赤飯(あかめし)と、しとぎと言われるお団子のようなものをお供えするのですが、昔は人目につく事を嫌った為、22日の深夜に提灯を持って杜にお供えしに行ったという。(現在は日中であるという)

杜にはそれぞれニソ田があり、そこで収穫されたもので祭祀料をまかない、祭祀終了後は祭祀担当の家に集まって飲み食いするニソ講が行われる所もあったという。今は行われていない所も多いのだとか。

次に訪れたのは博士谷の杜(あってる?)

目の前が杜である。場所はお分かりだろうか?

写真中央部にぽっかりと開いた暗い部分があるが、そこが入り口である。

一見、ただの森にしか見えず、たまたま大まかな場所を知っていて、注意深く散策していたから見つける事ができた。

少々心苦しいながらも森の中に一歩、また一歩と足を踏み入れた。

大きな木と小祠がある。

さきほどヒモロギのお話をさせてもらったが、かつては木にしめ縄を巻き、それを神域・聖域とし、その後小さな木の苗を立てた台座へと変わり、祠へと変わっていった。

神域とは神が宿る場所(依り代)の事をさす、狭義では祠周辺を本当の禁足地、近寄ってはならない場所とする捉え方もある。

その証拠に、道路の格調などによって森(杜がある森)が縮小された場所もある。依り代が重要なのであり、それらを総括する森はその時代の事情により形が変わってきたのもニソの杜の特徴でもある。

その為、自分の判断の下、自己責任だが出来る限り祠・巨木には近づかず、全体が見渡せる箇所まで入って撮影させて頂いた。

杜がある場所はいくつかの特徴がある。山の尾根の末端部に位置する事(平地もあり、形状はその二パターンに分けられる)、巨木を有している事。

いずれも道路から入ってすぐなど、分かりにくいものの、比較的行きやすい場所にある。

現在の町からほど近い杜が多くあるが、山手のほうにも点在している。かつてはそこにも集落があったという事らしい。

清水の前の杜にやってきた。

ガソリンスタンドの裏側にあるという情報は聞いていたが、ここは探すのに苦労した。

竹藪には道がなく、ただただ鬱蒼とした杜が広がっていた。

唯一、目印ではないが、お地蔵様が倒れていた所が入れそうだったので、奥に入ってみる事に。

すると、倒れた竹の間にひっそりと祠は佇んでいた。

まだ新しい紙垂やしめ縄があり、昨年に祭祀が行われたであろう姿がそのまま残っていた。

杜の木は刈ってはならない、そういう教えがこういった風景を作り出しているのであろう。

守られていく伝統と、退廃的な杜の光景が相反して不思議な感覚になった。

次の杜を探している時に、不思議な杜に迷い混んだ。

鬱蒼とした森はニソの森を彷彿とさせるものだったが巨木や祠などの姿はなく、ふと目をやった所に5~6体のお地蔵様が落ちていた。

いくつかのお地蔵様は浸食からか顔がえぐられているようにも見えます。

こういった顔のないお地蔵様がこの半島のなんでもない森にいくつかあった。ただの廃棄物なのか意味のある場所なのかは分からないが、疑問に思った事の一つだ。

最後に紹介するのは浜禰の杜。

これもまた隠された場所に存在した。写真右側の黒い箇所が入り口である。

これもまた巨木に寄り添うように小祠があった。

ここには紙垂やしめ縄など、祭祀の跡が無く、管理されているような感じには見えなかった。

浜側にあり、すぐ近くには大きな海水浴場があり波の音が響く。

日常の影にこのような場所も存在するのだと、決して忘れてはならない日本人にとって重要な歴史であるという事を知る事ができた。

最後に、道の駅小浜のサバサンドはめっちゃオススメ!絶対食べてよね!

感想・まとめ

ニソの杜の風習についてとても興味があり、ようやく訪れる事が出来ましたが、実際の所、現地の方々はそういった事を聞かれる事に歓迎という雰囲気ではなく(僕がお話させて頂いた方々のみかもしれません)、なかなか思うようにお話を聞く事ができませんでした。

重要な文化なだけあって、それらをもっとまとめ上げたいとおもうので、機会があればまた訪れてみたいと思います。

こういった古い風習の残る地域から山一つ隔てた岬には大飯原発があるのがとても不思議でした。福島原発の事故から原発反対の動きは大きくなりましたが、出来始めた頃は何も分からずいい点ばかりのプレゼンに、この半島も押されるがまま大きな反発もなく受け入れたそうです。

動画の序盤で渡った綺麗な青戸の大橋は今では地元の重要な生活道であり観光地である訳ですが、これも原発を作る時に関電が提示してきた条件でした。それまでは本土までの行き来が大変で不便だった島民には喉から手が出るほど欲しかったものかもしれません。

おおい町は小浜の近くにあるんですけど、小浜といえばサバ!サバと言えば小浜!古くは鯖街道を通じて小浜などから京の都に魚を運んでいたというほど、古くから漁業で栄えた場所です。

大島半島も古くから漁業によって栄えていました。サバはこの地にとって切っても切り離せないものと言えるでしょう。

小浜にきてこれを食べないと祟りにあうらしいです。ボールペンが書きにくくなったり、テレビのリモコンがちょっと反応悪くなったり、割と怖いです。是非食べて下さい。

 

山と終末旅の管理人について
たむ - tamura -
平成3年生まれ、京都に住んでいます。登山や、夜景、人の少ない観光地へ行って、現実から逃げ、非日常的な体験をする事が好きです。

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