福知山城・墓石(転用石)を使用した罰当たりな石垣
レジャー概要
福知山城・墓石(転用石)を使用した罰当たりな石垣
福知山市にやってきました。福知山といえば明智光秀が建てた福知山城。
福知山城の石垣にはなぜか大量の墓石が使われているというので見学しにいきました。
一見よく見る普通の石垣です。野面積みといい、自然の石をそのままの形で積み上げる方法で作られており、石の大きさや形も不規則です。
よく見てみると、、、人工物のようなものが混ざっているのが分かるでしょうか?!
これらは転用石と呼ばれ、墓石として使われる五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、石仏と笠塔婆を使用したものなのです。
この狭い範囲に13もの墓石の一部がありました。梵字が刻まれているものもあります。
古いものでは延文4年(1359年)のものから新しいものは天正3年(1575年)のもので、いずれも明智光秀が福知山に入る以前のものばかりです。築城以来400年以上もの年月を耐えてきました。
福知山城では見える箇所だけで450~500個が確認されました。そのほとんどが天守石垣付近に集中しています。
なぜこのように墓石を使用したのでしょうか。
一般的に転用石というのは、築城に際して、多量の石が必要となった場合に使用したり、敵や反対勢力の首長の墓石を使用する事で権力を誇示するためなどと考えられています。
福知山城に関しても、明智光秀が近隣から石塔などを集めたという伝承があります。築城の際に、石垣に利用する石材が近辺になかった事や、短期の築城のため、光秀の治政に反抗的な地元の寺院を破壊して集めたと言われています。
また、天守石垣に集中しているという事から、(石塔などにより)城を守護するもとという意識があったとも考えられています。
使われている墓石のほとんどは、正面中央部や角の部分などひと目につきやすい部分に使用されています。
一部の墓石は大きさから、それなりの大きな家柄のものだった事が考えられます。明智が丹波に入る前の権力者のものかもしれません。
この事や伝承から、反対勢力を潰したという領民への見せしめとしてあえて見える場所に使用したものではないでしょうか。
探せばあちらこちらに墓石が使用されています。
普通に考えれば墓石を積み重ねて城を立ててしまうというのは罰当たりですよね。人が眠っていたわけですから。
使われている石材の多くは、五輪塔の一番下の部分(地輪)が多く、綺麗にハマっています。実際、形から見ても石垣の石材として最適であった事は間違いありません。
こちらは福知山城再建の際に出てきた墓石の数々。
400~500年前の墓。石の加工が今より優れていなかった事から形はまちまちです。
石垣に使えるのか?丸いものまでありました。
地輪と思わしき石には全てにはっきりと梵字が刻まれています。
転用席についての説明。
最後にせっかく福知山城にきたので城内にも入ってみました。城内は展示場になっていて撮影禁止やったので、天守閣部分のみ。
天守閣から眺める福知山の町(北部)。
福知山城は標高40mほどの大地に築かれ展望のよくきく場所にあります。
綾部方面。
感想・まとめ
お城の石垣に墓石を使うなど、罰当たり、不気味とも思えます。墓石を守護に使うなど、戦国時代特有の価値観があったのでしょう。
入場料がかかりますが、城内は地元の出土品の展示、また天守閣からの長めも素晴らしいので登ってみて下さい。
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