古都コトイメージSmart

2018.09.18

二居変電所 – 窓が素敵な緑に囲まれたコンクリート神殿

廃墟の情報

萱付(かやつけ)変電所
変電所跡
場所 新潟県
建築 1924年
廃墟化 1948~1970年台


廢墟レポート vol.103:二居変電所 Futai Substation

 こんにちはtamuraです。

 やってきたのは新潟県の三国峠にある二居(ふたい)変電所と呼ばれている所で、変電所の跡のコンクリート建築が廃墟となって残っているのです。

 僕の廃墟好きの根源にあるもの…それは…CONCRETE&NATURE😍

 しかも鬱蒼と茂る緑の中に埋もれて…僕の一番大好きなシチュエーションです!!かなりの有名物件で昔から知られていた廃墟です。

 国道沿いにある為、ガンガン車が通っており、時折僕らを見て車の速度を緩め変な目で見てくる人たちも…。

 そんな人達なんて気にもせず(うそ、ちょっと恥ずかしかった)草木の中をかき分け、変電所内部へと入ってきました。

 実はこの廃墟についてはあまり詳細は知られていないそうで、二居変電所という名前も正式名所ではなく、建物に書かれた「二居」という文字から、そう名付けられたのだそうです。

 建物の詳細は記事を読み進めていってもらったら書いておりますが、変電所の建設が大正13年、国鉄越後湯沢駅の開業が大正14年という事で国鉄上越北線の開業に伴い建設された可能性が高いです。

 調べてみると、昭和21年の地理調査所(後の国土地理院)作成の地形図に、この廃墟の場所に「萱付(かやつけ)」という文字と、発電所等のマークが記載されており、発電所のある土地の過去の地名は「湯沢町大字三俣字萱付」であったという事がわかりました。

 東京電燈の1936年08月発行の社史の記録によると、「大正13年(1924)12月24日 萱付変電所落成す」と記載されており、その直前の11月29日には「湯沢発電所第二期工事一部落成」となっております。

 また、他にも「萱付」がつく地名がないか探してみた所、唯一千葉県の香取市に「萱付(かやつき)道」という奈良時代の遺構もあるそうですが、そもそも千葉県は大正13年当時「帝国電燈」の管轄であり、東京電燈に買収されたのも大正15年になってからですので、以上の事からこの建物は「東京電燈 萱付変電所」で間違いないであろうと思います。

 建物上部にある窓からは緑が溢れています…同時に涙も溢れてきたとか、きてないとか。それくらい良かったです。

 この建物の閉鎖時期は詳しくはわからなかったのですが、地理院地図の昭和21年発行の地図データには「萱付」という文字が残っているものの、昭和49年に測定された地図には記載はありませんでした。

 ちなみに昭和21年発行の地図にはまだ国道は無く、今でこそ変電所跡は国道のすぐ横にありますが、萱付変電所はかつて旧道から離れた山岳地帯に存在していました。馬さえ通れなかったと言われた交通の難所「三国峠」に国道17号が開通したのが昭和34年の事で、現在の国道は旧道より離れほんの少し山手の方にトンネルが掘られて開通しているのです。

 おそらく三国峠の道路建設が始まった1948年(昭和23年)前後に変電所としての稼働は停止したのではないかというのが推測です。

 中に入ってみたいのですが、国道沿いの入り口からは入れなかったので、ジャングルと化したヤブの中を歩いていき、正面の入り口へと向かいます。

 ちなみに二居(ふたい)という文字はどこから来たのか?!二居とは現在の二居トンネルを南に出た所にある集落の地名で、東谷山とP1057との倉部に二居峠があります。発電所のある萱付は二居峠を通じてつながっていますが全く違う土地です。萱付は大正時代までは集落が存在していたようです。今では見る影もありませんね。

 現在の二居トンネルの二居集落側の入り口のすぐ西側にある現在の「かぐらスキー場 田代ステーション」が、かつて発電所(名称はわからない)があった場所であり、そこから萱付変電所へと電線が通じていました。

 昭和49年測定の地理院の地図には変電所のマークが消えていたものの、二居にあった発電所からの電線は萱付変電所を経由し湯沢の町へと通じていました。

 そのため、変電所としての機能は失った後も送電線の経由地としての機能は保っていた可能性があります。

 奥清津発電所が運転開始したのが昭和53年7月で、おそらくそのタイミングで二居川にあった発電所の役目を終えたのではと思いますし、それ以降変電所周辺から直通で湯沢へ向かう送電線は地図から消え去ったので、萱付変電所の廃墟化(放置)が始まったのは昭和53年以降という可能性もあります。

 細かく見ると、昭和49年の地図では建物跡がないのと、少し電線が通る位置が変電所とずれて居るため、あくまで可能性にしか過ぎません。変電所としての時期、廃墟の時期の他、送電線の拠点や物置などとしての時期があったのかどうかが廃墟化の時期を大きく左右します。

 正面入口。ワクワクだぁぁああ…。

 中は残留物は一切なく小さな建物ですが、廃墟美がすごい。

 無機質な空間ですが、コンクリートの朽ちた姿は他になにも無くても美しいですね。

 大きな窓から、さきほど下から見上げていた緑の窓がキラキラ輝いていました。

 階段を登って三階へ向かいます。階段は取っ手もなく基礎むき出しの状態。

 三階に到着。

 大きな広い部屋。

 一箇所開けたスペースから、さっき見上げた窓を間近で眺められました…。

 ふつくしい…、きっと昭和初期とかの建物なんでしょうけど、質実剛健な建物とそこにアクセントとなる機能美MAXの窓…この時代のコンクリート建築が廃墟の中で一番好き。好き好き。

 窓の向こうでパラパラと降る雨粒が緑に輝いていました。

 窓の外には少し立てるくらいのスペースがあったのですが、さすがにこの高さに怖気づいて窓から手を出して撮影していました。

 高所恐怖症が炸裂です。実際に見ると吐き気がするほどの高さ。

 三階にあった小部屋。

 トイレは取り外されたのか便器が無く穴が空いているのみ。残留物は微塵も残っていませんでしたが、コンクリートの朽ち具合が見れただけでも大満足。

 二階の小部屋。過去に吹き抜けの部屋になにか置いてたときはこの扉から出入りしてたんでしょうね。

 感動しっぱなしで眺めていたので写真もほどほどでしたが、次の廃墟が待っているので帰らなければ…場所が新潟という遠い土地なので二度と来ることはないかもしれませんが、またこういう廃墟に出会いたいものです。

感想・まとめ

 三国峠の萱付変電所は通り沿いからは想像がつかないほど内部は美しい空間が広がっていました。朽ちた無機質なコンクリートの空間に窓からあふれる緑の…コンクリートと窓と自然の融合した廃墟ほど美しいものがあるでしょうか…。きっといつまでもこの地で三国峠を超える車の安全を見守っていくのでしょう。

山と終末旅の管理人について
たむ - tamura -
平成3年生まれ、京都に住んでいます。登山や、夜景、人の少ない観光地へ行って、現実から逃げ、非日常的な体験をする事が好きです。

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