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2013.12.04

廃村八丁 – 京都北山の奥地にある廃村跡

廃村八丁

廃墟の情報

廃村八丁
廃村
京都府南丹市
廃墟化 1936年


廢墟レポート vol.7:廃村八丁 Haison hattyo

 こんにちは、tamuraです!

 今回は、山仲間のひでぶーさんと共に、京都北山の品谷山という所にいってみました。ついでにお願いして、廃村八丁へ立ち寄らせて頂く事になりました。

 登山記録は山ページにあるとして、ここでは行き方などはパスして、廃村八丁に焦点をあてて記事を書きます。

 ダンノ峠の雰囲気。菅原・廃村八丁というのはありますが、品谷山という看板はここにはありませんでした。ダンノ峠上がってすぐ右側にピークへ上がっていくトレースと、美山トレイルのテープが張ってあるのでそちらへ上がっていきます。

 石組みが増えてきました。八丁を近くに感じます。

 石組みの中はこんな感じ。

 到着です。廃村八丁、元の名を弓削八丁。昭和初期までは八丁集落という村があったのですが、現在は残された多くの石組みとこの三角小屋と呼ばれる建物しか残っていません。標高600m程度ですが、周囲は山で囲まれ深い山の中に位置します。廃村直前の住所は「京都府北桑田郡弓削村小字八丁○○番」といった感じだったそうです。弓削は現在の右京区京北の地名の一部なんですが、現在の八丁の住所は「京都府京都市右京区京北大野町正木」になります。ちなみに5戸が住んでいたというが「本田家」「弓下家」「段下家」など。それ以上はわかりませんでした。また学校と職員用の住居もあったそうです。

 三角小屋は八丁小屋というそうです。ん?…佐野?「12月8日に入ります。佐野」という謎のメモが残されています。あれ…品谷峠のサって佐野さんか~!という事は村長は佐野さん?。せっかく会えるかなぁと思ったんですが、村長さんは居はらへんみたいです。

 「八丁山は、明治11年6月最終的に上弓削村と佐々里村との境界が決定するまで実に500年近い争いの歴史があった。1682年公儀(公儀:この場合は江戸幕府)の御留山(御留山:幕府による一般市民立ち入り禁止の山域)として立ち入りが禁止された。元禄14年(1701年)周山村吉太夫の請負山となり上弓削から3名と広河原村から2人が炭焼きを職とし1町5反3畝の新畑を開き住居、1743年上弓削山の請負山となり5戸の者も山番として定住してきたが、明治維新になって佐々里村から八丁山払下げ願いが出されこれを聞いた上弓削村も直ちに払下げと嘆願した。山番5戸を見方にした上弓削村領と決め和済が成立した。明治33年には博習校の分教場も設けられ8人の児童に先生一人が教鞭をとった。昭和8年の冬大雪に遭って食料が欠乏し病人が出ても医者の便もなく、さんざんな目にあった所から村あげて山をあとに平地にさがり、昭和11年に廃村となった。」
 と書かれています。餓死者がでるほどの大雪で済むのも難儀した理由も分かります。。。こんな山の奥地での暮らしは大変やったでしょうね~。万が一今の時代に廃村八丁…いや、ホトケ谷とか佐々里峠に住むとしてもそれだけで食糧調達等大変な事ですからね…。そもそも500年争ったというのが凄い。

 やまで食べるカップラーメンとコーヒーのうまさは格別。

 ご飯をたべて、再び少しだけ散策をする。

 小さな小川を超えると?

 小さな祠がありました。この近くに神社があったらしい。

 崩壊した建物の跡が。これはなんだったんだろう。

 こちらにも。廃村になって長いですが、こうやってまだ痕跡が残っているんですね。

 しかし水がキレイ~透明だね。

 最後に小屋の中を覗いて帰る。今度は管理人さんにあってみたいな。

感想・まとめ

廃村八丁を見に行く目的で品谷をぐるっと回って行ってきました。

廃村が昭和初期という事でほぼ何も残っておらず、現在残るのは廃村後に建てられた三角小屋や、当時の祠や家の石垣のみになっていますが、確かにここに人が住んでいたんだという感じがある不思議な空間でした。

行ってみると山の中の中にあり、こんな所によく人が住んでいるなと思うほどです。今はハイキングコースとなっていますが、迷いやすい所もありますので行かれる方は経験者と同行するのをお勧めします。

山と終末旅の管理人について
たむ - tamura -
平成3年生まれ、京都に住んでいます。登山や、夜景、人の少ない観光地へ行って、現実から逃げ、非日常的な体験をする事が好きです。

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