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2019.02.24

舞鶴旧海軍第三火薬廠(ロシア病院) – 爆薬製造していた軍事施設跡

舞鶴旧海軍第三火薬廠(ロシア病院)

廃墟の情報

舞鶴旧海軍第三火薬廠
戦争遺構
場所 京都府舞鶴市
建築 1942
廃墟化 戦後


廢墟レポート vol.73:舞鶴旧海軍第三火薬廠 Maizuru powder magazine

 こんにちはtamuraです。久々の単独廃墟散策です。やってきたのは舞鶴市朝来(あせく)。

 京都府と福井県に跨る青葉山の麓にある青葉山ろく公園のはじっこに、戦争時代の「舞鶴第三火薬廠」というコンクリートの建物跡が残っています。

 この海軍第三火薬廠がのこる白屋という地区は、かつては住みやすい農村でした。昭和14年に海軍高官がこの地を訪れ、白屋そして長内、岡安という地区もひっくるめて全て買収しちゃうんですね。

 そうして日中戦争による火薬の需要増加に伴い、昭和17年(1942年)に出来上がったのが舞鶴でとても重要な軍事施設となる海軍第三火薬廠でした。

 入り口は舞鶴工業高専の横にあり、観光地化されている訳でもないので看板もなくひっそりとしています。

 現在はほとんど人も来ることはないので廠内道路の周辺の森は草が生え倒木だらけ。

 これより谷部に入っていきますが、舞鶴旧海軍第三火薬廠はかつては現在の青葉山ろく公園や高校の敷地なども含め、施設全体で約600万㎡という広大な土地にたてられました。

 終戦を機に役目を果たし、多くの施設は解体され、公園や高専などの敷地に利用されましたが、山間部に位置した建物だけが解体を免れ現在まで残されています。

 舞鶴は第三火薬廠といいますが、では第一とニはどこにあったのか調べてみると、第一火薬廠というのは宮城県船岡町にあった船岡支廠、第二火薬廠は神奈川県平塚市にあった平塚本廠の事をいうそうです。

 舞鶴第三火薬廠は神奈川・平塚の平塚本廠(本部)にあった1部署である爆薬部を舞鶴に移転してきた時の施設だそうです。

 敷地内には当時の海軍のマークが入った消火栓があった。

 入ってみると藪の中に佇むコンクリート遺構が姿を現します。

 谷部に残っている施設は火薬廠の中でも「砲煩谷22」と呼ばれていた地区で、砲弾等の炸薬を成型していた施設でした。

 おどろおどろしい姿をしていますが、誰が読んだか「ロシア病院」

 京都府八幡市の男山山中にも古い修道院跡でロシア病院と呼ばれているスポットがありますが、心霊スポットというのは、都道府県ごとにどういったスポットが心霊スポットになりやすいかが似通っている場合が多く、ある県にトンネルの心霊スポットが有名な所があれば、その県の他の心霊スポットもトンネルが多かったりするものです。

 つまり一つ有名な所があれば、他にもそれっぽい所があれば有名所にあやかって同じように心霊スポットになります。

 このロシア病院も、八幡のロシア病院もどっちが先にロシア病院と呼ばれたかはわかりませんが、山奥にある何かしらの跡地という事で同じような呼ばれ方がされたのだと思います。

 すぐ横に高専がある為、肝試しなどに利用されたりして噂が広がりやすいというのもあると思います。

 大部分はコンクリートで造られていますが、建物の正面の柱や窓は木製です。

 これは火薬が万が一爆発した時、この場所から爆発の衝撃を逃がすために、あえて壊れるように木で造られていました。

 これらの施設では海軍の特攻隊の弾丸、魚雷火薬、機雷、砲弾などが生産された所であり、当時日本海軍が使用した爆薬の約半分を作っていたというのですからとても重要な場所だったと言えます。

 藪の中にある為、何棟あるかはわかりませんでしたが、他にも沢山のコンクリート建築物が。

 なんとか中に入ってみると火薬庫の跡地のような所につながっていました。

 なんだか画になる扉。

 もし病院として使われていたなら、パイプベッドの骨組みなど残っていそうなものですが、それも見当たらないので、心霊スポットの通称として呼ばれているだけのようですね。

 地元の若者が来て書いたんでしょうか。

 火薬と作るという作業はとても大変な作業だそうで、薬物で手がかぶれたり、この朝来地区というのは舞鶴でも特に豪雪地帯として知られており、冬は寒く凍えながら、食事も満足にとれない時代だった為、ひもじい思いをしながらの作業だったといいます。

 当時この施設で働いていたのは、京都から派遣されてきた旧制中学校3年生以降(15~17歳)のまだ若い生徒たちで、厳しい監視下の元ひたすら軍の為に作業を行っていたということです。

 裏側に回り込んできました。竹林で覆われ薄暗い雰囲気です。

 落ちていた「京」ナンバーの…上部分?

 反対側は扉が残っているが、ツルなどが絡み合い遺跡のような素晴らしい雰囲気でした。

 内側は木の質感が綺麗に残っていました。

 大好きなドアノブ。

 こんなところでも廃墟の窓ってやっぱり素晴らしい!

 綺麗なパイプ椅子が一つぽつんと置かれていました。光と影が廃墟の雰囲気を左右する…。

 大きなダクト。建物と建物の隙間は薄暗く、TVで見る海外のスラムの一角のような、そんな光景を思い出しました。

 最深部にはトンネルがありました。

 砲熕谷(ほうこうだに)トンネルというそうです。

 他の建物と隔てるように作られた土塁(防薬土塁)があり、入り口としてトンネルが開けられています。

 392というのは進駐軍に接収された時にわりふられた番号で、毒ガスを製造していた広島県の大久野島の施設などでもこういった数字を見ることができます。

 392の建物はかつて爆薬庫として使われた建物です。

 外見はただ崩壊しているだけに見えるけど、じつはこれ迷彩柄の痕だそうです。なんとなく迷彩の痕跡があるようなないような?

 反対側にまわってみると迷彩がわかりやすく残っていました。

 ランプでしょうか、根本から折れて垂れ下がっています。

 中は雨水で水没しています。

感想・まとめ

 数年前に訪れて書いた記事ですが、再訪のため写真を張り替えました。

 舞鶴の朝来地区に残る海軍第三火薬廠のコンクリート遺構に行ってきました。建物は旧海軍のものになる為、当時の軍事機密にあたる詳細についてはあまり明らかになっていません。

 かの戦艦大和の砲弾を作っていたという情報もありますが、真偽は不明です。

 残留物は何も残されていないので、建物だけみるとただのコンクリート建造物ですが、入るときにふと足元にあった消火栓に刻印されていた海軍のマークをみると、ここが海軍施設だったのだと再確認できます。

 放置されてから70年近く経っており、周囲は藪に覆われ廃墟となっていますが、戦争時代を語り継ぐ重要な建物であるといえます。

山と終末旅の管理人について
たむ - tamura -
平成3年生まれ、京都に住んでいます。登山や、夜景、人の少ない観光地へ行って、現実から逃げ、非日常的な体験をする事が好きです。

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