古都コトイメージSmart

2009.05.03

松尾鉱山「緑ヶ丘アパート・生活学園」散策記録

松尾鉱山の緑が丘アパート

廃墟の情報

松尾鉱山
鉱山跡
場所 岩手県八幡平市
建設 1951
廃墟化 1972


廢墟レポート vol.2:松尾鉱山 Matsuo mine

こんにちはtamuraです。

かつては東洋一といわれた硫黄鉱山、その名も松尾鉱山。日本三大廃墟の一つといわれるほど有名な廃墟に行ってきた時の記録です。

初めてこの鉱山を訪れたのは、1999年の夏の旅行の時でした。当時第一次廃墟ブームの真っ只中でしたが僕はまだ廃墟という存在を知らずにここへ連れてこられました。父からこの松尾鉱山がどういう所だったのかを聞かされました。この標高1000mの地にかつて都市が存在していた事。その都市は硫黄を採掘する鉱山の為に造られた事。東京や大阪などの大都市よりも優れた都市機能を備えていた事。

でも僕の眼の前に広がっている景色は、人の気配すら感じられない、ただの放棄された今にも倒壊しそうなアパート跡。

僕は言葉にならない興奮を覚えました。かつて栄えていたのに、現在は役目を終え滅びた町の景色が琴線に触れたのでした。

僕が「廃墟」というものに対して特別な価値観を持った瞬間でした。

初めて松尾鉱山を訪れてから、2001年、2005年、2007年とこの地を訪れました。この記事は最後に訪れた2009年の時のものです。

アスピーテラインの風景。この雄大な岩手山の景色が好きです。

松尾鉱山の入り口。ここはアスピーテラインからの緑ヶ丘アパートへの入口です。[長屋・生活学園などはさらに奥にあるシェルターの中に入口があります。]

松尾鉱山は今でも坑内から有毒な鉱脈水が流れ出している為、中和処理が必要となっています。そのための施設が入居しています。

見えてきました。雲上の楽園とまで謳われた旧鉱山都市、「松尾鉱山」です。「嫁に行くなら松尾鉱山」という言葉は非常に有名ですが、テレビで有名になった言葉ではなく本当に当時から岩手県では言われていた言葉で、働きに応じて非常に高額な賃金が支払われており、非常に安定した暮らしができたそうです。

鉱山従業員用アパート「緑ヶ丘アパート」です。このアパート、日本初期のコンクリートアパートで、こういった最先端なものの普及は東京や大阪などの大都市より早かったそうです。(ちなみに軍艦島が日本初)

ちなみに、この広大な高原、今は何もないため残った住宅地がぽつりとありますが、この広い高原全体に長屋やスーパー、雑貨屋、百貨店、病院、病院にはレントゲン撮影機など多くの建物・施設がありました。現在は鉱山閉山直後の消火練習のため消失しております。

それにしても、この雄大な景色は素晴らしい。百名山の八幡平の中腹にあるこの高原は、夏が近くなってもまだ雪が残っています。紅葉も素晴らしいのですが、僕は残雪期の景色が一番スキです。

それでは松尾鉱山緑ヶ丘アパート、みて行きましょう。

上段と下段があります。号棟はすべて「1棟,2棟,3棟」ではなく「イ棟、ロ棟、ハ棟、ニ棟、、、」というイロハ順で分けられております。

山の斜面にこんなマンションがあるのは不思議な光景ですね。

さらには過去にこの場所は大きな町だったのですから驚きです。

入口。ここにはどんな扉があったのだろうか?

アパート内部。暖房[セントラルヒーティング用の配管を見ると、本当にこのアパートは昭和26年もの?60年以上も前のものなのか?と思えてしまう。

郵便受け。このポストは壊れていますけど、壊れていなかったら今もあるちょっと古い市営住宅のポストと変わらないような気がしますね。

部屋に入っていきましょう。

軍艦島は6回もの埋め立てで土地がなく、部屋は非常に狭いですが、松尾鉱山は当時のアパートにしては結構広い作りになっています。[独身寮はかなり狭いですが。]

ここに家族が暮らしていたんですね、、、なんか不思議な感じがします。

ちょっと疲れからか、体がふらついたので、窓付近に座り窓の外をしばらく眺めてみる。

松尾鉱山は5月付近の残雪のまだ残る時期と紅葉の時期が一番綺麗。段々になって残る雪や、あたり一面紅葉色になった中にポツリとあるアパートなども抜群に素晴らしい。でも、紅葉時期は人が非常に多いからなぁ。廃墟を見る感じではなくまるで観光地に来たような気分になる。そう考えると5月が一番いいのかもしれません。

窓の外。今はなぁ~んにもないなぁ。ちなみに左端にぽつんと見える廃アパートは独身寮。あそこの上階から見るこのアパート群は素晴らしいし、山全体が紅葉したときの景色はもう口にあらわせないほど素晴らしい。

ここは台所。台所は結構広いです。

これはトイレです。どうでしょう。今の和式と変わらない形してますよね。実はこれ水洗トイレです。当時の日本の一般家庭には水洗トイレなんてまずどこにもありませんでした。こういうところからも日本TOPクラスともいえる暮らしだった事がわかります。

八幡平といえば豪雪地帯として有名で、現在の雪の少なくなった気候でもアスピーテラインは封鎖されますが、当時も鉱山町[こうざんちょう]全体が埋まるほどの雪が積もりました。そういう冬は鉱山からアパート~長屋、そこから百貨店、病院などと雪のトンネルが張り巡らされ、その中で生活していたそうです。アパートはセントラルヒーティング仕様で現在の朽ちた姿からは防暖性のかけらも感じられませんが、そんな真冬の中でもふわふわと暖かく何の寒さの苦もなかったそうです。

そんな輝かしい過去を持つ松尾鉱山ですが、鉱毒事件などのから負の遺産といわれる事もありました。また、安全性は悪く奥地へ入り込んだ人が忽然と姿を「神隠し」と呼ばれる坑道への落下事件もあったようです。また、地元の若者が来ては廃墟となった町から不要なもの(基本的に銅線や家電)を持ち出し町へ売りに行きお金と変えたり(遺失物等横領罪)、廃墟となったアパートに不法侵入し、勝手に自分の部屋を決め、秘密基地などと称して占領し、酒やタバコ、シンナーなど治安面も悪かったそうです。

そのため、現在残っている松尾鉱山緑ヶ丘アパートは以前とは全く違う姿となってしまいました。風化したのも原因の一つですが、生活学園に至っては「赤い部屋」で有名な落書きやBB段の多さなどから閉山後の治安の悪さがうかがえますし、近年も「心霊スポット」として有名になったようで、肝試しに来ては常識のない若者により破壊行為は現在も進行している状況です。

破壊行為は行くたびに、「あーここ壊されとるなぁ」という場所が増えているように思います。そういうのは非常に残念だなぁと思います。


前回と前々回行った時の写真

この写真はこの数年前に行ったときの写真なのですが、生活学園のたしか地下体育館手前だったと思います。

写真いじっててすごく懐かしく感じました、2003~04年だったと思いますが、デジカメという文明の器具を父親の友人にもらってから、初の旅行だったので必死に撮影してた記憶があります。

ちなみに使っていたコンデジはporaroid社の「PDC 2070」という200万画素のデジカメです。記録媒体はスマートメディアを使ってました笑 SMの事知らない人も増えてきたんじゃないかな!

もう弾かれる事のないピアノ。塗装ははがれおち、鍵盤は破壊され、木は歪んでいる。

これが有名な赤い部屋。まぁただめちゃくちゃに塗りつぶされただけのものだが、インパクトがあり、一瞬ビクッとする。椅子に座っているマネキンは通称「俺の女」もしくは「彼女」と言われておりボコボコに破壊されていました。

生活学園の屋上から。

懐かしい!「PDC 2070」って、撮影した時に手が震えると、いがんで写ったなぁ!新幹線の車窓から撮影すると町がすごい事になったりして笑ってたな。

八幡平の木。不気味ですよね。下に向かってから上へ向かっている不思議な枝の生え方ですが、これはこの付近の雪の多さからなるもので、気が雪の重みに耐えられない場合にこういう生え方をします。

こちらは長屋。アパートに入れなかった人たちはこちらで生活をしていました。主な長屋は緑ヶ丘アパートの正面付近にあったのですが閉山後に消火訓練のため放火され消失しました。

長屋は木造のため、風化が特にひどく生活していた場は今では床がぼっこぼこに空き、扉も木が腐り落ちています。

独身寮から見た松尾鉱山廃墟軍です。ここまで見ていただきありがとうございました。

山と終末旅の管理人について
たむ - tamura -
平成3年生まれ、京都に住んでいます。登山や、夜景、人の少ない観光地へ行って、現実から逃げ、非日常的な体験をする事が好きです。

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